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放射線による水分子の化学変化と生物影響をシミュレートするプログラムの概念図
(左: プログラム開発の背景、右: 本研究で開発した計算プログラムにより視覚化した水の分解生成物)
本研究では、最新のがん治療効果の解明に応用可能な、放射線による水分子の分解とその後の挙動を視覚的に追跡する計算プログラム(以下、「化学コード」)の開発に成功しました。
放射線療法は、外科手術や抗がん剤治療と共にがん治療を支える3本の柱の一つです。放射線療法において生体に放射線を照射すると、生体内の分子と放射線が物理反応を起こします。生体には水が多く含まれるため、物理反応後には水分子は分解され、OHラジカルや水和電子など、さまざまな分解生成物が大量に発生します。放射線治療時のがん殺傷効果や、染色体異常や発がんなどの正常組織への副反応は、これら水の分解生成物とDNAとの化学反応によって引き起こされます。
今日までに、さまざまな放射線治療法が開発されてきました。その中で、近年、極めて短い時間に大量の放射線を照射し、正常組織内での副反応を抑制しながら腫瘍を効率よく殺傷する「FLASH療法」が登場し、世界中で注目を集めています。副反応が抑制される原理として、正常組織内で水の分解生成物の反応が抑制されるとの仮説がありますが、判然としていません。したがって、「FLASH療法」の最適化のためには、生体内における水の分解生成物の挙動や反応への一層の解明が必要です。また、放射線治療で用いる放射線は、重粒子線や陽子線、X線や電子線などがありますが、分解生成物の挙動は異なります。これら放射線治療における化学反応を研究する手法の一つとして、水の分解生成物の動きを予測する化学コードが、世界中の研究者により開発されてきました。しかし、予測可能な放射線の種類には制限がありました。
本研究では、放射線挙動解析コードPHITSを活用し、がん治療に用いるさまざまな放射線による水の放射線分解と発生する分解生成物の挙動を追跡する化学コードを開発しました。本コードは、PHITS専用の3次元可視化アプリケーションと組み合わせることで、目には見えない水の分解生成物の挙動が可視化され、水の放射線分解とDNAとの化学反応の直感的な理解を実現しました。また、本研究の応用として、「FLASH療法」の最適化、他の放射線治療計画の高度化など、医学研究の飛躍的な進展が期待できます。さらに、生命科学分野におけるDNA損傷の発生原理の解明のみならず、原子力工学分野では原子炉内の水素発生量の解析にも応用可能と考えています。
なお、本研究は国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範)原子力基礎工学研究センターの研究員でかつ国立大学法人北海道大学(総長 寳金清博)とのクロスアポイントメントで講師を務める松谷悠佑研究員らと、学校法人北海道科学大学(学長 川上敬)の吉井勇治講師、国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(理事長 小安重夫)の楠本多聞主任研究員、国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所 海上技術安全研究所(所長 平田宏一)の大西世紀元グループ長との共同研究によるものです。
本成果は、2025年3月21日に英国科学誌「 Physical Chemistry Chemical Physics 」に掲載されました。同時に、開発コードで作成した図が雑誌の裏表紙に採用されました。
放射線療法は、外科手術、抗がん剤治療と共にがん治療を支える3本の柱の一つです。近年の加速器工学・医学・生命科学分野の目覚ましい進歩により、粒子線治療・核医学治療など、さまざまな種類の放射線療法が登場し、私たちの生活の質が日々豊かになっています。そのような中、近年、極めて短い時間に大量の放射線を照射することで、放射線による染色体異常や発がんなどの正常組織への副反応を抑制しながら、腫瘍を効率よく殺傷する「FLASH療法」が登場しました。しかし、副反応が抑制されるメカニズムの詳細は解明されていません。
放射線の生物への影響は、DNA損傷を起点として、細胞死、染色体異常やがんの発生が挙げられます。DNA損傷は、放射線がDNAに衝突する直接効果と、放射線により水分子が分解して生じる生成物がDNAと反応する間接効果により生じます。「FLASH療法」では、極めて短い時間に細胞へ大量の放射線が照射され、放射線同士が密になります。そのため、反応性の高い水の分解生成物も高密度に発生します。これらの分解生成物が酸素分子と反応して局地的な酸素欠乏を引き起こし、細胞の放射線に対する感受性が低下した結果、正常組織内での副反応が抑制されるとの仮説がありますが、証明には至っていません。したがって、「FLASH療法」で使用する放射線に対して、生体内における水の分解生成物の挙動の解明が急務となっています。一方、生体内のラジカルの挙動解析手法として、コンピュータシミュレーション解析が用いられています。今日までに多くの研究者によって独自開発がなされてきました。しかし、多くは計算できる放射線の種類に制限があり、かつ非公開でした。
日本原子力研究開発機構が主体となり開発している放射線挙動解析コード「PHITS」1)には、電子線による水の放射線分解過程と分解生成物の挙動を推定できる化学コード「PHITS-Chem」2)が内包されています。さらに、水中でさまざまなイオン線とDNAとの衝突の解析実現を目指し、陽子線や炭素線の挙動を細密に模擬する「PHITS-KURBUC」3)と、物質中での任意の放射線の動きを原子サイズで予測できる「ITSART」4)が実装されています。
そこで本研究では、これらの計算コードを接続することで、さまざまな放射線によって水分子が分解する過程と、生成された分解生成物の挙動を追跡可能な化学コードの開発を進めました。また、計算結果に対し、PHITSに内包されている3次元可視化ソフトウェア「PHIG-3D」を用い、水の分解生成物の挙動の3次元アニメーションを表示する機能も整備しました。
開発では、「PHITS-KURBUC」と「ITSART」で計算したイオン線と水との衝突反応(電離5)や励起6)など)の種類や空間座標を、「PHITS-Chem」で読み込めるようにしました。これにより、イオン線と水の衝突反応で発生する13種類の水の分解生成物(OHラジカル7)、水和電子8)、水素ラジカル9)、ヒドロニウム10)など)の計算が可能となりました。加えて、「PHITS-Chem」には35種類の化学反応が組み込まれているため、放射線照射直後から分解生成物の動きを計算できるようにもなりました。さらに、「PHITS-Chem」で計算した水分解生成物の位置情報を出力する機能を開発しました。出力情報を「PHIG-3D」で読み込み、水の分解生成物の挙動を可視化しました(図1)。
図1上段左図は、物理過程の計算コードのイメージを、上段右図は本研究で使用したPHITS-Chemの概要を示しています。下段図のようにラジカルの計算結果をPHIG-3Dで読み込むことで、水の放射線分解について直感的な理解も可能となっています。
開発した「PHITS-Chem」の検証として、照射後10-6秒(100万分の1秒)のタイミングにおける陽子線、α線、炭素線に対するOHラジカルと水素のG値11)を計算し、文献報告された実測値、理論値、他コードによる計算値と比較しました(図2)。結果、良い一致を示すことがわかりました。さらに、PHITSに実装されている「ITSART」モデルは全てのイオン線の原子衝突反応をシミュレートすることが可能です。したがって、「ITSART」モデルと本研究で開発した「PHITS-Chem」を組み合わせることで、あらゆるイオン線により生じる水の分解生成物の挙動の評価が実現しました。
図2(左)から、放射線の飛跡上にて水の分解生成物を高密度に生成する高LET12)放射線では、OHラジカル + OHラジカル → H2O2が主反応となり、照射後10-6秒におけるOHラジカル量が低下しています。このことから、極めて短い時間に大量の放射線を照射する「FLASH療法」では、OHラジカルの量が低下すると見積もることができます。
図2 「PHITS-Chem」の検証として、照射後10-6秒(100万分の1秒)のタイミングにおけるG値を計算し、文献値と比較しました。図2(左)にOHラジカル、図2(右)に水素の結果を示しています。
生命科学分野への展開として、「PHITS-Chem」をDNA損傷解析に応用しました。その結果、生体内では純粋な水よりもOHラジカルの寿命が短く、放射線の飛跡から遠くまで拡散できないことが明らかになりました(図3左・中下段)。これは生体内ではOHラジカルを捕捉する生体内物質が多いためと考えられます。また、生体内コンディションと同等条件で、陽子線やα線、さらには炭素線でOHラジカルの量を求め、OHラジカルがDNAに反応する確率を計算しました(図3右)。その結果、LETが高くなると間接効果の発生確率が小さくなり、先行研究のシミュレーション結果とよく一致することが確認されました。
図3 生命科学分野への応用として、DNA主鎖切断13)数の解析を行いました。左上は1 MeV14)の電子線の飛跡、左中と左下は純粋な水中と生体内の分解生成物の挙動を追跡した結果です。右に、放射線のLETと間接効果の発生確率の関係を示します。
以上、「PHITS-Chem」の開発により、あらゆる放射線により発生する水の分解生成物の挙動を視覚的に予測することに成功しました。また、本開発により、放射線防護や放射線治療など、放射線影響の出発点であるDNA損傷について正確な理解を可能としました。同コードは、2025年4月にPHITSユーザーが利用できるよう一般公開済みです。
今回開発した「PHITS-Chem」を世界中の研究者が使うことにより、「FLASH療法」や炭素線治療などの重粒子線照射時の生物効果の解明に応用可能です。さらに、「PHITS-Chem」は、原子炉内での水の分解生成物と水素発生量などの評価にも有用です。今後、公開した「PHITS-Chem」を生命科学や原子力科学分野に応用することで、放射線影響の正確な理解につながります。
本研究による成果は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構運営交付金、原子力システム研究開発事業(Grant No: JPMXD0224019683)、科学研究費助成事業(Grant No.: 22H03744、23K24998)から一部助成を受けました。
論文名 | Development of a chemical code applicable to ions based on the PHITS code for efficient and visual radiolysis simulations(放射線分解を効率的かつ視覚的にシミュレートするPHITSコードに基づくイオン線に適用可能な化学コードの開発) |
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著者名 | 松谷悠佑1、2、 吉井勇治3、楠本多聞4、 小川達彦1、 大西世紀5、 平田悠歩1、佐藤達彦1、甲斐健師1(1国立研究開発法人日本原子力研究開発機構、2国立大学法人北海道大学、3学校法人北海道科学大学、4国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構、5国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所 海上技術安全研究所) |
雑誌名 | Physical Chemistry Chemical Physics(放射線物理化学の専門誌) |
DOI | 10.1039/d4cp04216f |
公表日 | 日本時間2025年3月21日(金)午後6時(英国時間2025年3月21日(金)午前9時)(オンライン公開) |
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
原子力科学研究所
原子力基礎工学研究センター
放射線挙動解析研究グループ
研究員 松谷 悠佑
TEL:029-284-3754、Mail:matsuya.yusuke@jaea.go.jp
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
総務部 報道課長 佐藤 章生
TEL:070-1460-5723、Mail:sato.akio@jaea.go.jp
<問い合わせ先>
国立研究開発法人 海上・港湾・航空技術研究所
海上技術安全研究所 企画部広報係
Tel:0422-41-3005 Fax:0422-41-3258
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